カサイユウBlog

ゆるめに生きてる元風俗嬢ライター。

母という生き物って存在しないよね

わたしはとても無邪気で、目で見たものをそのまま信じていて、より深くを掘り下げようとしない子どもだった。母は母で、先生は先生、そして芸能人はテレビの中の生き物。 そう認識して疑わず、その奥に人格があるだなんて、思いもしなかったのだ。

自分の妊娠を知ったのが今年の1月。制限のある生活は出産する9月まで続いた。時間はありあまっているけれど、私が好きなことは妊娠した体に良くないものばかり。好きなときにふらりと飲みに行くのも、深夜気ままにジョギングするのも。かと言って「出産後の準備は妊娠中から!」なんて言われても、いまいちピンとこない。子どもがいる生活をうまく想像できず、ネガティブな考えごとばかりはかどる。

いずれ来る育児生活を思うと「母というカテゴリーの中でしか生きられなくなること」が、とても怖かった。 母になれば母らしい振る舞いをしなくてはならず、そんな窮屈な生き方が自分にできるのか、と。 そんなわけはないのだけれど、そういうものだ、自分を諦めなくてはいけないのだと、たびたび悲しくなった。

そんないきさつがあって、いまでも他人から「ママ」と呼ばれることや、「ママ友」「ママ会」という言葉をうまく受け入れられずにいる。 (ただ子連れで出かけるとき、飲食店探しの検索ワードとして「ママ会」はすごく便利!)

ヒマをもてあましていた妊娠中は、出産・育児関連のマンガを読みあさった。小山健さんの「お父さんクエスト」も、そのひとつ。 父になることについて、作中に「アップデートじゃなくてアプリが増えただけのような感じ」という表現がある。 なるほどそう捉えればいいのか、と気が楽になった。

古い育児論に「女は子どもを持った瞬間から、自分を捨てなければいけない」というものがある。いまでも、そんな窮屈な生き方は到底できる気がしない。 むすめのことは、とても大切。それは前提であたりまえで、当然のこと。だけど、自分のことだってとても大切なのが本音。

「母がだっこするから泣き止む」わけじゃなくて、「いつも顔を突き合わせてお世話をしているから泣き止んでくれたりする」のだ。「母という生き物」は存在しない。人格を持ったひとりの人間が「母という大役」を担っている。

先日、無事に3ヶ月を迎えたむすめ。彼女と一緒に過ごすうち実感したのは、産んだ瞬間から溢れるほどの愛情を注げるわけではないこと。変哲ない日々を共有することで、愛情は少しずつ生まれて、育っていくもの。これに気がついたときは、ちょっと感動してしまった。

むすめにとって、間違いなく母でいたい。同時におもしろおかしい生き方を好む、ひとりの人間でもいたいのだ。